日本人の中でかなりな少数派ではあると思うが、
外国語の歌を専門に歌いたい人がいる。
オペラを歌いたい。
シャンソンを歌いたい。
サルサを歌いたい。
ジャズを歌いたい。
イタリア語やらフランス語やら
スペイン語やら英語を勉強したりする。
もっと勉強したくなって、現地に住み始めたりもする。
そこまではいいと思うのだが、
日本人なのに、外国語の歌しか歌わないというのは
いかがなものか、と思うのだ。
だいたいプッチーニは彼の周りにいたイタリア語を母国語にする歌手に
歌ってもらうことを想定してオペラを書いたのだろうし、
コールポーターも彼の周りにいた英語を母国語にする歌手に
歌ってもらうことを想定してミュージカルを書いたのだと思う。
決して、学校の義務教育で英語を学ばされた日本人歌手に
歌ってもらうために書いたとは到底思えない。
その歌手が母国語の歌詞で歌う時が
一番、聞く人の心をつかむ、というのは基本だと思う。
歌唱力がある人が歌えば、何語で歌ってもいい、等というのは嘘だろう。
母国語で歌うからこそ、歌詞の言霊が、
母国人を感動させ、ついには国境を越えてその言語を理解しない人の
心まで揺さぶるのではなかろうか。
言葉というものは、その国の歴史文化が刻み込まれた暗号であろうし、
そう簡単に、外国人が、その国の言語を理解して歌に出来るものでもないと思うのだ。
サラヴォーンは、そのキャリアのほとんどを、
母国語である英語で歌っているからいいのだ。
サラヴォーンが日本語でしか歌わない歌手でいいはずがない。
ユッスーンドゥールは、母国語であるフランス語や
彼の出身民族の言語で歌うからいいのだ。
ユッスーが日本語でしか歌わない歌手だったらもはや滑稽ではないか。
こんな事を思ったのは、
昨日、知り合いの方から、
先月に放送された『NHK紅白歌合戦』の録画DVDを
ありがたくも借りて見る機会を頂いたからなのだ。
およそ10年ぶりにこの番組を見て、
日本語で歌い上げる、アンジェラアキに、
『トイレの神様』に、天童よしみに、徳永英明に
コブクロに、五木ひろしに、北島三郎に、氷川きよしに、
ストレートに心を揺すぶられてしまった。
(Perfumeも初めて聞いたが、ちょっと好きかも。)
日本人歌手による日本語で歌われた歌に感動する私、日本人。
それはそうだろうという、自明の理を再確認した感じであった。
ただ、日本人の中で、これも相当な少数派だと思うが、
日本人歌手が外国語で歌っているのを聞くのが好きだという方もいるので、
これで、外国語を専門に歌う日本人歌手も
食べていける余地はあるにしても、
かたや、母国語で歌う歌手の祭典が、
テレビで視聴率40パーセント以上も稼ぐ一方、
外国語を専門に歌う日本人歌手のライヴはどこか
小さいスペースに限られてしまうことが多いのは、
当然といえば当然の事象であると思ってしまうのだが。