『可能性に挑戦をする。』という事と、『己を知る。』ということの狭間で
僕のゴルフはいっこうに上手くならないような気がする。
(まだ、打ちっぱなし練習場で、ボールがちゃんとまっすぐ飛ぶかどうかだけで
悩んでいる状態なのだが。)
ほんのつかの間だが、かなり調子良くボールが飛ぶ時期があり、
これでいいのかと思ったのだが、
そのうち、タイガーウッズや宮里藍の映像を見るにつけ、
自分の身体のあまりの固さからくる、悪いフォームが嫌になり、
なんとか彼らのように、左腕をものすごく上にあげる
バックスイングを目指そうとした途端、ショットがとても不安定になった。
自分はタイガーウッズじゃないと己を知って、
自分が調子良く打てるところで、
フォームを固めてしまったほうがいいのかもしれないと思う。
自分の出来る事を深めていく、という事の方に集中して行った方が
いいのかと思う。
ただこの『己を知る』事は、『可能性に挑戦する』事を
諦めるということであり、どこか寂しい感じがするのだ。
似たような事が自分のやっているピアノ演奏にも起こる。
自分はどうも他人の書いた譜面をその作曲者が意図を汲んで
演奏する事が極端に下手だ。とても簡単な譜面
(メロディとコードネームだけの様な譜面)を
好き勝手に膨らませて弾くのがまぁ得意というか、
これでここまで生きてきた、と思っている。
だが、込み入った譜面を素晴らしく弾きこなせるピアニストの
演奏を聴くと、ものすごく憧れるのだ。
ああいう風に弾きたいと思って、練習してみるが、
これも身体の固さからきているのかもしれないが、
どうも笑っちゃうくらいに弾けないのだ。
自分はマウリツィオポリーニじゃないと己を知って、
可能性を諦めればいいのだろうが、
でもなんというかもうちょっと上手くなれたらいいなという想いが、
自分のピアノもゴルフも狂わせてしまうのかもしれない。
ポイントは、『己を知る。』事の寂しさに自分が耐えれるかどうかなのかしら。
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